生きること、興味あることに集中をしていると、応援してくれる人は必ずあらわれる

プロフィール

禅との出会い

長野県南部。軽井沢のような高原地帯の21代続く小さな寺の長男に生まれる。
祖父は18歳からの9年間を禅寺で過ごした禅僧。

夜、祖父の部屋に行くと布団の上で祖父が静かに坐っていたのが
禅との最初の出会い。その美しきたたずまいに圧倒された記憶は今でも残る。

祖父はふだんは孫を甘やかせてはいたものの、
「おまえは永平寺だ」と2人きりになると時折言われていた。

霊感が強い祖父は、儀式になると誰も声をかけられないほどの
シャーマンの状態となり、お経はすべて頭に入っており、
地域では慕われもしたが、酒豪で知られていた。
そんな祖父が私の原点


父も祖父も

祖父は父に厳しく、父は中学の教員となる。
その父を大学時代に鍛え上げたのは海軍兵学校を卒業した祖父の弟。
父の教育法は長野県において勉学と部活と躾において驚異的な結果を残すことになる。

父は私に教師になることを望み、父の思いと祖父の思いを両方生かす生き方を模索する中高時代。
年頃もあり、寺の坊主になることに素直になれない時期がしばらく続き、
十四歳で十二指腸潰瘍を患うなど神経質な体験をしたことでこころに関心を強めていく。

高校時代は英語が一番好きな科目だったこともあり、大学は英文科を志望するも塾が嫌いな独学タイプの私に第二次
ベビーブーム受験は甘くはなかった。

滑り止めに受けた仏教学部に英文科用の受験対策問題がすべて出た時、試験中に回答しながら思った。

「これは坊主の道を生きろってことか。ほとけに呼ばれたかも」

予想通り、仏教学部のみ合格

「最悪の結果になっちゃった」と母に電話口でこぼす。

「おめでとう!先のことは大学で考えたらいい。塾にも行かずよくやったね。」と母は本当に喜んでくれた。


ブッダとの出会い

大学から上京し、駒澤大学で学ぶ。
仏教系の寮に入ったため、朝5時半起床の夜9時門限という学生生活を2年送る。

この寮で法要の基礎をきっちり学ぶことになり、儀礼の美しさに萌えた。
祖父の血を引き継いでいるのか、いまだに儀礼と教理をつなぐ探究は止まらない。

イヤイヤ入った学部だったがブッダに出会い、仏教に恋するほどに好きになる。
大学4年間は人生で最も勉強した時期。パーリ語という古代の仏典語に出会い、英訳本を読むなかで、ブッダ
のスピリットが国際性を持つ手ごたえをつかむ。


永平寺へ

大学4年の12月。卒業論文提出の初日の朝一番に論文を提出し、東京から長野に戻る途中、大好きだった祖父が寂す。

卒論の仕上げのなか、祖父に会おうと実家に帰ろうとした私に父から「死を看とることよりも、今自分がなすべき
ことをしなさい」と諭された意味が今になって分かってきている。

大学院に進学しようか迷っていたが、祖父の遺志と思い福井県の永平寺へ


「おまえはシャバで禅を広げなさい!」

人生最大に緊張した永平寺入門から1年過ぎた頃、もう少し残るかおりるか決断する時期がくる。
当時心から尊敬していた老師と呼ばれる会社で言うところの上司にあたる方に相談すると、間髪入れずに

「おまえはシャバで禅を広げなさい!」
「あなただけしかできないやり方がある。そのやり方で広めたらいい。」

少し永平寺に未練を残しながらも、再び上京し、大正大学大学院に進学する。


20代のミチクサ

ブッダの教えを外から研究しようと大学院は宗教学を専攻。
オウム事件の余韻冷めやらぬ時代で、スピリチュアリティという言葉が出始めた1990年代。
脳死と生命倫理の問題は世間を騒がせ、終末期医療にも関心が広がり3年かけて卒業する。

日本の儀礼研究での第一人者藤井正雄教授を始め、研究室で3年間学問の基礎をつくる。

卒業して次の進路を決める際、「興味の対象に共通するのは何だったのか?」と冷静に見た時、

「こころ」に行き着き、学びをこころの現場で活かしたくなり、カウンセリングを学び始める。
大学院卒業とともに民間のカウンセリングスクール:アイディアヒューマンサポートサービスに入校。

約2年スキルトレーニングを学ぶなか、日本のコーチングの先駆者、岸英光氏から半年間トレーニングを受けたり、
国際メンターシップ協会主催の講座を大阪で受講。当時のコミュニケーション系のクラスを複数校修了する。
学校で教わってこなかった“聴き方”という原点を始め、こころの基礎を学んだ時期。


究極の救い

18歳からの在京中に今でもつながっている八王子市の高乗寺高尾霊園。
敬語の使い方からままならない私をゼロから育ててくれた細川住職にはまさに縁のあたたかさを感じる。

本勤務をしていた時代は人間関係で最も悩み鍛えられた感がある。
管理職となり、厳しい態度で臨んだものの、なかなか思うように人と調和できない時、

いるだけで影響力をもたらす人間像を身をもって示してくれたのが細川住職。

「言わずして伝える」究極の救いの姿

そこにこそ真の調和がおとずれるとハっとさせられた。


独立へ

実家の補佐が本格化し、勤務と長野の往復がいよいよ厳しくなってきた頃、
独立の思いが強まり始める。勤務と並行して学びを積んでいた心の現場で身を立てる決意をする。

永平寺の老師からのテーマ
「シャバに禅を広める方法」

そのきっかけとなったのが、横浜の親族のご自宅へ初盆供養で訪れた時の、ひとときの坐禅の時間

「よっちゃん(私)坐禅はお寺でなきゃダメなの?」

「風水にかなったそれべしの環境に建てられているのが寺だから、寺をオススメするけれど、寺とは限らないです」

「だったら出張で坐禅を指導してくれる人がいたら、なかなかお寺に行かれない人に、身近に接してもらえるチャンスじゃない?」


この日から出張坐禅を真剣に考え始め、実行に移したのが2007年。
横浜の親族の坐禅会は月に一度3年間継続し、その継続のなかで、こころのありようの変化を見届けられたことがなによりの授かりもの。禅の力を人を通じて確信する。


ZENセッション誕生

趣味が学びといってもいいぐらい、新しい身心系のセミナーやワークショップには関心を注いでいる。
こころの正体をつかむには、心理学ではつかめないことを痛感し、ヨーガや気功といったボディを学ぶことで禅とこころとからだと呼吸とがつながり始めた。ただし、しっくりと腑に落ちない思いは拭いきれない。

友人のすすめで受講した認識学と量子物理学のセミナーがきっかけとなり、単純に初心に帰りきって坐る毎日を継続することで、20年近く課題にしていた自己の問題に決着がついた。

長野県という環境。曹洞宗という禅寺に生まれた意味。

祖父と父と母の思いを生きることは禅を教える道を歩むこと。
永平寺の老師が見抜いた可能性を生涯の修行とすること。
細川住職の“存在するだけで影響をもたらす”味わい深い究極の人間性をモデルとすること。

神経質な少年時代。学問に熱中した青年時代。ミチクサの20代。
現実主義者に転じた30代前半。自己の学びを社会に表現するタイミングの現在。

こころの奥の深い衝動に駆られて選択した仏教学も、永平寺も、宗教学も、心理学も、ヨーガも気功も

すべて「禅」が介在してつながった!

あたかも数珠の玉に糸が通るように完全一致の体験を経て、ひとさまの人生に寄り添う道に生きることを決意した。

ZENセッションの誕生である。


現在

趣味で学んだ数秘学が禅とつながり、数秘を用いたZENZENメンタリングは大好評。
インターネットの本屋さん“まぐまぐ”恋愛部門ウィークリー1位のこのはなさくやさんとのコラボレーションが
きっかけとなったワークショップ“二色禅”は伝統禅と現代カウンセリングがシンプルに出会う主張禅の極みと言
っていい。

2010年11月より、3〜4世紀のインドで体系づけられた最古の心理学、唯識心理学を学びZENセッションは体系的に
完成を迎えている。
唯識心理学で師事している唯識の第一人者、横山紘一師との出会いは大学の同窓生からの一通のメールから始まった。

生きること、興味あることに集中をしていると、応援してくれる人は必ずあらわれる。
私もあなたのそんな一人でありたいと思っている。

その機会の提供として、ZENセッションplusは私が学んできたすべてを集大成したひとつの物語です。

その物語はあなたの物語であり、世界人類に普遍的に通用する物語です。
一緒に日本の禅を世界のZENに広めませんか?

長文を読んでいただきありがとうございました。

ご縁と出逢いに感謝を込めて。


寺澤よしたか 合掌
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