真心の正体
- 2014年01月24日 |
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【バックナンバー2013.02.08】
アルジェリア人質事件、大阪桜宮高校の体罰事件、
オリンピックの女子柔道選手全員、日本代表監督を告発など、
少しニュースをみただけで、●が欠落してて残念でなりません。
「性、相近きなり。習い、相遠きなり」
『論語』の孔子のことばにあるように、
人間にはもともと大きな違いはなく近しいもの。
しかしながら、躾や学びといった“習”によって人間力に
大きな差がついてくることを見せつけられている思いです。
目的達成なら手段を選ばず、
うまければ、強ければ、という筋肉だけが育ってしまい、
●がこどもじみたまま。
想像しえない状況があるにせよ、今回あかるみになった
リーダーやコーチが、立場のコントロールに与した事実をわが事とするなら、
私たちも、知らず知らずのうちにゲームのなかに居得るかもしれないですね。
★先の『白隠展』・・・ 次の予定もあり、
90分あれば見終えるかなと見始めたら、90分で全体の2/3。
瞑想癖がやってくれました~~
90分しっかり集中してしまったようで、メンタルがお腹いっぱいになってしまい、
その後は、「集中電池」切れのタイムオーバー@@
おかわりしてまた来ようと残りの1/3の展示は歩幅を少し広げて、
ゆるゆると眺めているうちに、一旦通り過ぎたあと、逆戻りしたA4用紙1枚ほどの作品
書かれていたのは、
直
心
という絵書でした。
(改行がずれているかもしれません。
“心”の字の上に“直”という字が乗っているような絵のような字^^)
読んでみました?
まごころ と読まず
「徳」 と読むんですね。
もともとは、タテに字を連ねて「とく」と読み、
いつからか、ギョウニンベンになって今の「徳」になったようです。
こころがまっすぐに、すなおな本性にもとづく行いをしていくことで養われる徳。
言われたとおりに、まずやってみたり、主体的に恩恵を分けていく行為ですね。
立体的に字をみてみると、
自らの心の上に、背筋をまっすぐに据えてどっかりと坐っているようにも見えてきます。
凛とした美
たしかに瞑想や禅というのは、1階に住みなれた者に
2階の景色を与えてくれるような行為のようにも見えてきます。
ひたすら坐っているうちに意識が高くなると2階にあがったつもりになります。
思うのは、2階が見えたときの1階への接し方。
冒頭の方々はもしかしたら、2階にあがったかどうかは別にして、
新しい景色欲しさに、1階への下り方を違えてしまったかもしれません。
建物は1階があって2階は存在できる。
1階は大地と定礎があって1階でいられる。
ついつい、見えなくなると、どうしても支えを忘れてしまう。
いつの間にやら、地面としっかりとつながらなくなった時、
魔の手がのびてくるのかもしれません。
1階も2階も自在に往来すること、それは単純に精神性(霊性と冷静)を高めることや
しっかりと根ざして現実面に物質化していくことでもありましょう。
表裏あってひとつ。どちらかひとつの得失では、
習いの蓄積が、人を遠ざけていくのでしょうね。
何か言われたり、起こったりした時に、
腑に落ちた底辺からの素直でいられるかどうか?
いられることを徳の側は待っているのでありましょう。
↑ ● は 徳です。
「五行説」では
春の徳は木
夏の徳は火
秋の徳は金
冬の徳は水
中央の徳は土 としています。
冬から春のこの時期、水=感情をよーっく見つめて内側の位置調整をし、
新しい芽をつむぎ、今年の縁に出会い、夏には火のように動き、風の応援を受けて燃えたり!?
秋には収穫がもたらされるその真ん中にはいつも、土(身体)の応援ともにある。
あなたに既にそなわる本聖(本性)
季節に見合う徳ゴコロを、今年もともに育てていきましょう♪
そして、生きられる地で、まだモノ言わぬ人生の主であられることを
日々祈っています。
「随処に主となれば、生きざまはみな真なり」
<臨済義玄語録より>
最も印象的だった作品は「徳」
自戒自戒でございます。
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