「一日なさざれば、1日食らわず」と「働かざる者食うべからず」の違い
- 2014年01月26日 |
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【バックナンバー2013.02.15】
800年頃の中国(日本は平安時代、空海が中国に留学していた頃です)
ある道場での師の話。
ある日、山の木の手入れをするのに、
道場総出で、はたらきに出る日がありました。
師は齢を重ねて80歳。
弟子たちは師のからだを気遣い、
「私たちでやりますから、師は休んでて下さい」と願い出ましたが、
師は「そうはいかぬ」と率先して出てきます。
この行動を予期していた弟子たちは、
師がはたらけないように道具を隠してしまいます。
師はその日、
休むことになりましたが、食事をとりませんでした。
「なぜ、食事をなさいませんか?」
「働かぬということは、その日を成していない。
だから、食べないのだ」
1日のみならず、3日たっても師は食事をとりませんでした。
聞いたことがおありの言葉かと思います。
「一日なさざれば、1日食らわず」・・・百丈壊海(ひゃくじょうえかい)
禅生活というのは、坐っている時だけが禅でなく、
掃除も食事も入浴も、勤めも学びも、行いのすべてを禅とみなします。
仕込みも、こうして便りを書くのも^^
私たちに置き換えるなら、雑用は存在しませんよね?
それは、私たちの観念の産物なのだから。
どんな用事であっても、わずかやほのかさといった
細やかさのなかに、特別の価値を広げていくのが禅行です。
瞑想しているときだけが瞑想でなく、
生活そのものが既に瞑想のただなかにあり、
逐一気がつかないながら、つねに天地の働きとともにあります。
切っても切れないはたらきのなかに、
生かさせてもらってる(←ちょっと説教くさいか。。)
おおいなるはたらきに支えられての、
わが1日のはたらきを成さないままに、
食事だけいただくことは、
掟に反することになると、
師は答えているのでした。
身体あってなさぬこともなさないまま、
いただけるものだけいただくのでは、
息を吸ってばかりで吐かないのと同じですね。
天地さまに申し訳がたたぬという
(日本人的な)摂理への義とも思えてきます。
百丈は、禅に基づく生活の決まり事を細かく定めた方です。
みずからの誓いに照らし合わせて、喉を通すことができなかったのでしょう。
禁止令的な「働かざる者食うべからず」
↑と・・微妙に異なる “禅のこころ” は、
感じとっていただけましたでしょうか?^^
静寂も禅なら、
アクティブも禅。
江戸時代の白隠禅師は、
「動中の工夫、静中に勝ること百千億倍」と言い切り、
坐る行為を原点とし、かかわりのなかでの無限の創意工夫を重視しました。
現代の禅者、S・ジョブズは、まさに静から動へとかたちにした実践者でしょう。
坐る静が親なら、動の行為が子どもといったところでしょうか。
あなたに休むことなく大切にはたらきかけてくれている
「支え」とともに今宵もありますように。
おおいに1日を成されましたら、
おおいに召し上がれ^^!!
志事あとの、一杯のドリンクの味わいのなかに
あなたの全人生の1日が、今日もあふれていることを願っています。
「天父は常に働きたもう、ゆえにまた子もはたらくなり」『新訳聖書』