贈りもののあるじ


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【バックナンバー2013.03.11】

黙祷

 

ある日ブッダは、自分の言うことに、

ことごとく軽蔑的で 無礼で辛辣な態度をとる仲間と旅をすることがあった。

 

3日間にわたって毎日、ブッダが口を開くたびに、

旅人はバカ呼ばわりし、横柄な態度であざ笑った。

 

3日目の終わりに、ついに旅人は我慢できなくなって ブッダに尋ねた。

 

「この3日間、侮辱され、気に障るようなことを散々されてきたのに

 どうしてそんなに慈愛に満ち、寛容でいられるのですか? 

私が侮辱するたびに  あなたは慈愛に満ちた反応をします。

どうしてそんなことができるのですか?」

 

ブッダは旅人に問い返しました。

 

「誰かに贈り物を差し出されても、それを受け取らなかったら、

 贈り物は誰のものになるかな?」

この言葉で旅人は思うところがありました。

 

誰かに侮辱という贈り物を差し出されても、

受け取らなかったなら、自分が侮辱されたことにはならないことを。

 

旅人の場合は赤裸裸ですけれど、本人にそのつもりがなかったとしても、

自意識に触れたり、大切にしている価値観や大切に思う方に触れた瞬間に、

「自分のことだ(出番だ)」と錯覚し、激情に駆られる時、

自動的に受け取ってしまっていることに ブッダは冷静ですよね。

 

 

「受け取らない」ことを選択するのも自由なんです。

人間やってますと、時に喜怒哀楽が反応する場面が訪れます。

その時、何を受け取るかって一度自分に聞いて、受け取って、

信頼と慈しみのもとに敢えてモノ申すのもまたけっこう。

受け取らずに降りるのもまたけっこうなのです^^

ブッダでさえも言われてしまう。

 

だから、言われることに受け取らない選択をつくったら、顔色伺いから解放されてきますよね。

 

人さまの言う事を聞かないということでなく、

本当に想ってくれる助言には耳を傾けていく峻別はベツモノになります。

 

その峻別は言葉の間の真意を感じての判断となります。

言葉に踊らされていないかを峻別することになります。

とくに現代はメール社会だから。間合いでつきあう関わりも、

必要なセンスですよね。 禅の本体には言葉はありません。

だからこそ、「受け取り幅」をつくってくれる恩恵は実に多大なのです。

「受け取らない」フィルタを身につけられた受け取り美人さんへ

 

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曹洞宗一等教師。宗教学修士。国際メンターシップ協会認定メンター。人生という旅を禅の力でたなおろし、根こそぎ生き直す「つきぬけ禅」を普及しています。禅数秘学の師としても、博多、大阪、東京、仙台、名古屋を巡業中!

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