私の天使
- 2014年02月08日 |
- バックナンバー |
【バックナンバー2013.04.10】
先日、
関西から東京に出張でお見えになった方と会食しました。
アクセサリーの話になりました。
紙面の都合ですこぶる割愛しますけれど、
人はそれぞれアクセサリーをつけていますね。
身につける貴金属類に限らず、
会社名、肩書き、役職、資格、○○家、また家庭人としても。
外側についているもの。
私の場合は、「僧」というのがアクセサリーになります。
つけているというよりは、ついちゃっている感じ笑)
「僧」というフィルターでみられたり、
「僧」という通念に期待を背負うことになったり、
もしくは、専門職として、
全般的に細々と質問を受けることが多々あります。
(子どもさんからの質問がシンプルでめっちゃシャープ!!!)
恩恵も沢山受けていますけれど、
すくなくとも、30歳までは、とてもとても重荷でした。
「禅を語る」のだってこわくてこわくて。
まだ悟ってないし。経験ないし。実績も誇れるほどは。。。
自らに高いハードルを課せては前に出るのを自分で阻む的な。。。(自作崖)
言い訳はドッチャリ出てきます。
もちろん、そういうずる〜い自分も好きには慣れず、
大切なものを見なければと思うほどに、なにかと見つけては遊びに出たり、
人と毎晩のように会って飲食でまぎらしたり、今思えば、真から逃避してた時期がありました。
アクセサリーに振り回されているように、
自分で仕向けていたんです。
僧である自分と遊んで、生きてる気持ちになっていただけ。
人は衣装に手を合わせ、私に手を合わせているわけじゃない。
そんなにまで思った20代。(ひねくれてますよね〜)
そんな身勝手で恥ずかしすぎるちっちゃな思いを知る由もなく、
それでも手を合わせてくれたおばあちゃんがいました。
おばあちゃんの姿はふと思い出され、今でも
原点に帰してくれます。私の天使ですよ。
トンネルにピリオドをつけることを決め
わけがわからないまま、ミニマム1日1行動に出た結果。
僧というアクセサリーをとる自分にやすらぎをみました。
僧であることのとらわれから自由であることにね。
けれど、ツボには幾つかこだわりますよd(^_^o)
ブログもツイッターもフェイスブックもしてますよ。
いま、関わりを保ってくれている方々は、こうした
アクセサリーをとったところでつながってくれています。
「とった」と表現しましたけれど、実際は・・・気がついたら・・・
「とれてた」んです♩
それは、
人さまとの出会いと関わりによってのみ。
おそらく坐禅をしつづける【だけ】ではいまだに不可解です。
今では、禅を語らせていただいています。
僧というよりは、寺澤としてね。
どんなアクセサリーを身につけていますか?
【つきぬけ禅】てのは、
内なるアクセサリーを認識することなのだと思います。
今思うアクセサリー(アイデンティティ)を客観視し、
あたらしいアイデンティティに出会い続けていきます。
ひとさまのアクセサリーがみえるようになり、
新しいアクセサリーとたしかにつながります。
不動につきぬけます。
場によって。
禅の智恵によって。
集う人との出会いによって。
東京①は来週最終回
【つきぬけの儀】で完全に抜けると思う!!
● 2月23日(日)14:00~16:00 満員につきキャンセル待ちです
つきぬけ禅プロローグ 博多天神
~感動が伴奏するあなたの物語~あなたがあなたでいるために~
● 3月 6日(木)15:00~18:00 あと4名さま
つきぬけ禅 ~大阪①~ 心斎橋
~過去をつきぬける~
プレワークショップも回を重ね、真実からの実現の誕生が既に参加者さんに生まれています。
連日連夜のメール講座へのたくさんのご登録ありがとうございます。
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頓智(とんち)で知られる一休さんの禅語
「真実の世界は入りやすく。魔の世界は入りにくい」
極楽には一瞬で入れるけれど、地獄に堕ちることは難しい。
一休さんらしいつかみどころのなさ。
本気で地獄に落ちてみたいと思うなら、目の前に極楽が見いだされてきますね^^