専門用語を用いない「悟り」の話
- 2016年02月17日 |
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お気づきのように
禅のブログなのにほとんど
専門用語を使っておりません
昔から、よく分からないことばを
分からないまま使うのが嫌いでしてね。
もっとも使い方に慎重になるのが
抽象度の高さの極み
“さとり”ってことばです。
3年前にこんな記事を書きました
20年前、
禅を学び始めた頃は、
「悟り」だなんて
ハードル高すぎて
「一生ムリーーー!」
・・・な
実に縁遠いことばだったのが、
今では
「さとりビジネス」まで出てくる時代
「その意識」に帰すのが目的で
セミナー開催している団体もチラホラ。
「その体験」を知的に体系化して
商品化してるところは、
専門職の私たちには
逆にない発想で新鮮です。
何人か悟り系セミナーを受けてから
浮いてしまった方々の面倒をみましたケド!!
でもね
悟りなんて
目標達成的なゴールじゃなくて、
それからの生きざまで
見せていくものなんですわ。
ただ
通過するだけ!
▼ホンモノは市井に住まう
とはよく言ったもので
世に出てこないような
カタギな悟者は、
街にふつうに住んでいます。
そして、
『悟り?』
『それがなにか?』
ぐらいのもんです。
悟りにさえとらわれていず
目の前に淡々としてる。
「悟っても変わらないの?」
と思うことなかれ
違いがあるとしたなら、
「余計なことをしなくなる」
「余計なことを思わなくなる」
「余計なことばを言わなくなる」
これだけでも
「しなかったら」
「余分思考が抜け落ちていったら」
「幻想ことばが事実に絡まらなくなったら」
反復される過去の痛い思いにしがみつくことなく
仮説される未来の可能性を留めることなく
“現在” に深~っく焦点をあてた
“集中” という名のアーティストでいられます。
アーティストは創造し続けますよね?
創造的でいられているかどうか?
現在発かどうかを悟りが教えてくれています。
通常の意識では、
過去も未来もミックスされているし、
アウトプットの段階になると、
どうしても言語を自制して
自他を切り分けながら、
今を生きているけれど、
現在を
純化すればするほど
ありとあらゆるものが
「目の前に全体として調和している姿しかみえなくなる」
この一元化された意識に気づけるのは
さほど難しいことではないですよね?
今に居続けられる力が
“差が取られた”状態。
だから、出会いの奇跡と
神秘に感動できるのです。
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弟子たちは、過去を悔いることも未来について考えることもない
彼らはただ、今という時に暮らしている
愚か者は、未来を思い、過去を悔いることで
刈り取られた緑の葉のように枯れていく -ブッダー
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