「では、お茶を召し上がれ」
- 2014年01月28日 |
- バックナンバー |
【バックナンバー2013.02.21】
ヨーガや禅寺での修行を通じ、
イギリスやアメリカの大学で教鞭をとり、
日本文化への理解が高いフランスの著述家
ドミニック・ローホー氏
『シンプルに美しく生きる44のレッスン』
オススメします♩
著者は、フランス生活が長く、
通訳でもご活躍の笹根由恵さん
先日お会いした時に、
ユニークなヘアアクセサリーと
つけかたをされていた理由が頷けました♩
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ある日
よく名の知れた師のもとに、道を求める方(行者)が訪れました。
師:「お前さん、前にもここに来たことがおありかい?」
行者:「いいえ、来たことはありません」
師:「では、お茶を召し上がれ」
またある日
同じ師のもとに、別の行者があらわれました。
師:「お前さん、前にもここに来たことがおありかい?」
行者:「はい。来たことがあります。」
師:「では、お茶を召し上がれ」
このやりとりをみていた弟子は、
「始めて来た方にお茶を進めるのは、わかりますが、
前にも来たことがある方に同じようにお茶をすすめるのはなぜでしょう?」
師:「お前さん」
弟子:「はい」
師:「では、お茶を召し上がれ」
この時、弟子は、ハっと気づいたことがあったようです。
一杯のお茶を無心でいただくことに。
師が、立場の異なる3人に、態度振る舞いを変えず
ただ、同じことばを使って接しもてなす無心のこころ。
「喫茶去」←「去」には 去りなさいの 意はありません。
ご存知のように、
茶の湯はもともと禅の茶礼から出ており、
わび茶の祖とされる村田 珠光氏が一休宗純から、
心ほどきを受け、利休が大成されました。
「茶の湯とは、ただ湯をわかし茶を立てて、
飲むばかりなる本を知るべし」
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20代の終わり頃、5メートルほどの仏像をつくることになり、
千葉県の、あるお寺さんに視察にいきました。
住職さんが、それはそれは体格がムキムキで
怖そうな表情をしてて、言葉をかけにくかったのに、
お茶碗を何度もあたためて、絶妙なお茶の温度で
丁寧に出して下さったお茶が、煎茶なのに甘〜くて
「おいしい」という言葉さえも出なかったほど。
緊張の糸もとけた忘れられぬ一杯のお茶。
当時、ちっちゃかったこと!
ただいただくこと、ただ差し上げること。
その時のお茶に込められたすべてを、時に感じていきたいものです。
大学時代にモノ入りでやめてしまったお茶の道
そろそろ再開しようかと思っています。
今日もおいしくお茶をお召し上がりください^^
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今年の大河の主人公、八重さん、夫を亡くされた後、
茶と禅に傾倒されていきますね。
安政の大獄の印象が強い井伊直弼さんは
大茶人としても、知られています。
茶事が済んでから、お客さまの姿がみえなくなるまで
見送り、さらにそのあと、お客さまを偲んで一杯の茶を
たて、一人静かに飲んだそうです。
今ではあまり丁重に見送ると、かえって負担とする
向きもあるようですが、相手に心を残すこころを残心といい、
目に見えずともこころで見送る美しさの現れですね。
昨日お茶をご一緒した方は、残心をひさしく感じた方^^
吐く息のさいごを見届けるような別れぎわ美人さんでした。
永平寺で、師に教わりました。
「別れぎわに人柄がでるのだ!」
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「自然に無駄なものは、なにひとつなし。
歩道に咲く野花のように、心を照らす月のように、
人は 彼らから既に 必要と祝福を受けている。」
生活を禅だと、観念で思うことはありません。知ってのち、
禅ということばさえ忘れた日常そのものでいることが、むしろ禅的です。